伝説の女性飛行士アメリア・イアハートは何処へ消えたのか?~女性初大西洋横断を成し遂げた米国の国民的ヒロインのミステリー

2022/06/07

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1937年7月2日
アメリア・イアハートは伝説のアメリカの女性飛行士で「ミス・リンディ」の愛称で全米に愛され、アメリカ本国では彼女はいまだに国民的な英雄とされている。
知的かつチャーミングな女性であったため、当時から絶大な人気があり、彼女の名前を冠された商品も多岐にわたっていたという伝説の女性だ。

1937年7月2日、当時39歳だったイアハートは地球一周飛行の最終段階にあり、パプアニューギニアから米カリフォルニア(California)州へ向けて出発した。

しかし、謎の通信を最後に彼女の消息は完全に途絶えてしまった。現在にいたるまで消息不明の彼女は、いったいどこへ消えてしまったのか?


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> 伝説の女性 アメリア・イアハートとは


1897年7月24日、アメリア・イアハートはアメリカのカンザス州アッチソン でドイツ系の裕福な家庭に生まれた。
幼いころからお転婆だったアメリアは、野山を虫を取ったりして走り回るような子供で、
7歳のある日、納屋の屋根から通りにトタンを渡して自家製の「ジェットコースター」を作り、
それをすべり降りたが、乗っていた箱が地面に激突して潰れてしまったことがあったという。

(写真:幼少期のアメリア・イアハート)

しかし彼女は唇を怪我しながらも爽快な顔つきで箱から現れ、見ていた妹にこう叫んだという。
「ああ、まるで飛んでるみたいだったわ!」

高校卒業後は医学を学ぶため名門コロンビア大学に入学したが、1年で中退し、第一次世界大戦中はアメリカ陸軍病院で看護助手として働いたという。


> 女性飛行士への道


そんな彼女が女性飛行士になるのには時間はかからなかった。
たまたま友人と訪れたカナダ・トロントの博覧会でアメリアは第一次世界大戦時のエースの展示飛行を見て、すっかり飛行機に魅せられた。
その後、飛行学校で操縦を習い、10分10ドルの飛行代と彼女自身の飛行機を買うために、
カメラマン、トラック運転手、電話会社での速記などでお金を稼いでいたという。

(写真:最初の飛行機Kinner Airster)

また、イメージのため髪の毛を短く切ってまるで少年のようなスタイルに変えた。
そして、とうとう最初の飛行機、黄色いKinner Airster(写真)の複葉機を手に入れる。

1928年の4月、アメリアはヒルトン・R・ライリー大尉と名乗る人物から電話を受けた。
「大西洋を飛んでみませんか?」

> 「初めて大西洋を横断した女性」という称号


こうして、彼女は政治評論家で出版者であり,のちの夫となるジョージ・パットナムと会い、パイロットのウィルマー・スタールズのチームに名目上は共同パイロットとして加わるように依頼された。




チームは1928年6月17日に、フォッカー F.VII(写真同型飛行機)でニューファンドランド島のトレパシー湾を出発し、およそ21時間後にウェールズのバリー・ポートに到着した。
このとき、アメリアは「初めて大西洋を横断した女性」の称号を得ることになる。

しかし,実際にはこのときアメリアは実は「男性パイロットのとなりに座っているだけ」,という役だった。それでも当時の女性にとっては、快挙だったのだ。
のちに彼女はこのことについてこう、語っている。

”シュトルツ(正操縦士)がすべて操縦したの・・・・しないといけなかったから。
わたしはただの荷物で、ジャガイモの袋みたいなものよ”



> 女性初大西洋単独横断で一躍スターに


彼女は「女としての特別扱い」に甘んじず、むしろそれに反発し、「次を目指す気持ち」を持っていた。
先ほどの発言のあと,彼女はこう告げたという。
「いつかわたしは自分一人で挑戦するわ」

この言葉とおり,アメリアは5年後の1932年5月20日、リンドバーグのパリへの単独飛行と全く同じルートで(機械の故障でパリに到着することはできなかったが)、アイルランドの牧場に着陸した。
これは女性による初めての大西洋単独横断飛行となった。

彼女は「女としてはすごい」ではなく、真に実力のある飛行家だったという。
その飛行は繊細で、天性のカンを持ち、『飛ぶために生まれてきたかのようにデリケートな操縦だ』
と一緒に飛んだプロの男性パイロットは皆、彼女を激賞したという。

最後となった世界一周飛行の謎

(写真:世界一周にでる2年前の写真(NATIONAL GEOGRAPHIC))

その後も、数々の快挙をなしとげた彼女だったが、とうとう1937年5月21日に赤道上世界一周飛行に飛び立つことになる。
これが彼女の最後の飛行となった。

(写真:ヌーナンとロッキード・エレクトラ10E )

ナビゲータのフレッド・ヌーナン(写真)と旅客機を改造したロッキード・エレクトラ10E(写真)でカリフォルニア州のオークランドを飛び立ち、アメリアは太平洋を東周りに飛行し、6月30日にニューギニアまで到着した。

(世界一周飛行の旅程)

しかし、7月2日に、当時の日本の委任統治領だった南洋諸島に隣接したアメリカ領の無人島であるハウランド島を目指して離陸したが、目的地に着陸することは無かった。

出発時の天候は、時折雨が降る曇天で雲が厚く、飛行するために行われる天体観測は困難な状況であったという。
また出発に際して推測航法に必要なヌーナンのクロノメーターを合わせるラジオ時報が受信できず、足止めを余儀なくされたナビゲーターのヌーナンは飲酒をしたという記録がある。

> 謎の最後の通信


イアハートは途中、給油のためハウランド(Howland)島を訪れる予定だったが、離陸から数時間後、最後となった無線通信が入る。

それは、飛行支援のためにハウランド島周辺で待機していた沿岸警備隊のイタスカ号に向けての通信だった。
「イタスカへ。私達はあなたたちの上にいるに違いないが、あなたたちが見えません。燃料は不足しています。あなたたちからの無線通信も聞こえません。高度1000フィートを飛行中」。
そして、その一時間後、
「私達は今、157° - 337°線上にいます。6210キロサイクルでこのメッセージを繰り返します。聞き続けてください」

その後も、「疑問を感じる」「南北線上を飛行中」という発信があったことが記録されている。
また、他の傍受者によると、同時刻に「残燃料ではあと30分程度の飛行しか出来ない」との発信があったともされる。
この通信を最後に、アメリアの消息は一切絶えてしまった。
アメリカ政府は当時のフランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)米大統領が命じた数回の捜索を行ったが、その甲斐なく、2人の痕跡は何も見つからなかったという。

こうして、アメリア・イアハートの最期は航空史ミステリーの1つとなった。


> 2012年、アメリアの機体の一部が発見される?


2012年になって、アメリカ政府は改めてアメリアの最期に関する真相解明を、ヒラリー・クリントン国務長官が公言し、米政府が支援することとなった。

問題は、イアハートとヌーナンが消息を絶ってから短時間内に死亡したのか、それとも漂流者としてしばらく生存していたのかという謎だ。

イアハートが行方不明となった1937年、イアハートの捜索とは別に入植候補地として無人島を調査していた英国の遠征隊が撮影したニクマロロ島の写真には「点」のようなものが写っていたが、詳細に分析した結果、この「点」は遭難したエレクトラの前輪部だったのではないか、という。

こうしてアメリア・イアハートの最期を解明するために結成された国際調査隊「歴史的航空機の発見を目指す国際グループ」が、2012年ニクマロロ島周辺全域を捜索した。

> 伝説の女性の最期とは?



2012年7月23日、同団体は搭乗機の残骸を示す証拠は何も見つからなかったと発表した。
しかし、のちの調査で同団体による調査で撮影された高精細映像を分析したところ、キリバスのニクマロロ島の西の海底に「人工物」が散乱しているのが発見されたという。

過去23年間で10回目の調査となった7月の調査では、イアハートが緊急着陸してしばらく生存していたとみられている無人島の周辺の海底の撮影が行われた。

「海中写真には、着陸装置の部品と一致する物体が写っている」と語り、タイヤの可能性がある物体を調査チームが発見したと述べた。

追加調査で有望な結果がでれば、2年以内にもう一度調査チームを派遣することになるかもしれないという。

「他の人ができることを決してしてはいけません。
 他の人ができないこと、しないことがあるなら、
 それをしなさい。」

(アメリア・イアハート)

果たして伝説の女性の最期が、解明される日はくるのか?







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